期待しないなんてね

 

「他人に期待しない」なんてフレーズを目にするようになってから早幾年。みんなどんなふうにこの考え方をモノにしていったのだろう。

 

 他人への期待について云々という話題になるときは、えてして周囲の人が自分の思うとおりに動いてくれない状況や、それによる傷つきが発生しているときばかり。セットになっていると言ってもいい。そして身近な友達からどこかのエラい知識人まで、「他人が自分の思うとおりに動くなんて期待はしない方がいい」なんてことを異口同音に語りかけてくる。という感じで合ってるんでしょうか。まあ少なくとも、自分はそういうふうに解釈している。

 

 なんとも頼りない書き方なのはそれもそのはず、いまだにその意味が腑に落ちてないからだ。

 一応、他人が原因で落ち込んだことはそれなりにあるつもりだ。自分が好意を持って接していた人にひどい態度を取られたり、仕事で信頼していた人が自分とは相容れない考えを提示してきたり…。そんな場面のひとつひとつで、この人は自分が思っていたよりも(少なくとも自分にたいしては)親切な人ではなかったのだなってため息をついたりする。いわゆる失望と言っていい感情だろう。

 

 こんなとき、失望するくらいなら最初から望みをかけなければよいのでは?というのが、「他人に期待しない」という言葉の言いたいことなんだろうか。たしかに失望するのも疲れるしムダな労力だよなあ。気楽にのほほんと生きるなら、期待も失望もない凪いだ環境を目指すのもアリだよなあ。

 

 ま、そんなこと出来るわけがなかった。おれは「他人に期待しない」というフレーズから感じる得体の知れない冷たさにより、その意味をきちんと考える前からこの言葉を忌避していた。そして実際の動きとしても、どこかで出会ってなにかをともにした人には毎度しっかりと期待をかけていた。この人とならこんなことが共有できそうだな、こんなことを提案したら乗ってくれそうだなとかって。

 

 それでもどうだろう。いまになってみて、対人的なことで落ち込む場面は以前より減っているように感じる。なんでかと言えば、期待がはずれても「まあこんな日もあるわな、しゃあなし!」などと受け流す能力が成長したように感じている。どうやら自分は、誰かに期待をかけにかけまくっても、あてがはずれたときのダメージを小さくしたり受け止めたりする力がつよくなったらしい。あの手この手を駆使して、いまでも周囲の人への期待を尽くすことなくここまで来れてしまった。

 

 だって人に期待するって楽しいんだもの。

 この人ならきっとすごいことをしてくれる、いつものように迎え入れてくれる、ダメ元だけど案外話が通るんじゃないかな…なんてことを誰かの期待を頭のなかで転がす時間はサイコーにハッピーなのだ。多幸感にあふれた他者への期待を手放したくないがために、期待外れに終わった時の気持ちの処し方が積み重なっていったようにすら思う。

 

 他者へ抱く期待を小さくする人がどんどん増えていく流れにあろうとも、おれは頭のなかで誰かへの期待を花咲かせて会いに行くよ。なあに、咲かせた花を受け取ってもらえずとも、また育てればいいだけのことさ。