不殺の剣を磨く

 刃物で作った傷を思い出すことはそうないのに、言葉で作った傷はずっと頭から消えないのはどうしてだろう。

 

 幸いなことに、おれは誰かから言われて傷ついたひとことを思い出すことはそんなにない。そのかわり、自分のひとことが誰かを傷つけた記憶はしっかりと頭に残っている。なんでもないときに思い出しては、毎回しっかりとおれの頭のなかをいっぱいにする。

 

 きっと、おれは人付き合いに恵まれた方なのだろう。自分を傷つける人が周囲に現れることは少なく、遭遇したとしても毎回なんらかの方法で回避出来ていた。その一方で、おれは穏やかで好意的な接し方をしてくれた周囲の人にひょこひょこと甘えて、ひどい言葉や表現を使うことがあったのだ。そんなことをときどき思い出しては、しっかりと胸が苦しくなる。

 

 胸を抑えていれば苦しみはやわらぐかもしれないが、次につながる学びは得られない。

 気を落ち着かせて、後悔をもたらすような言動をしてしまったか状況を思い出すと、だいたいは誰かを笑わそうとして不適切な表現を使ったり、誰かを理解しようとして的外れなことを口にしたようなことばかり。その場の相手が喜ぶと思い込んだ言葉を置こうとしたのに、自分の想像力や語彙がたりなくて間違えてしまいがちなのだ。

 

 話題のストックが少ないのに「何かを言ってあげないと」なんて変なおせっかいが働いて、自分が思い当たる関連した話を持ってきては、何のためらいもなく口から出してしまう。そう思うと、じゅうぶんに理解していないことをそっと自分のなかに留める謙虚さとか、他者を理解するために必要な学びが足りていなかったという答えにたどり着く。誰を慮っていたつもりがそれだけの力量が無くて、鋭い言葉を見つけてはやみくもに振り回す傲慢なふるまいばかり。相手が求めるものはどこへやらだ。

 

 言葉で他者を傷つけないためには、傷つく言葉を選ばなくて済むように語彙を増やし、きちんと選べる冷静さを持ち合わせることが必要なのだと思う。自分が使える表現が危ないものしか持ち合わせてないうえに、それが相手や自分の焦りにまかせて飛び出てしまう状況がそこかしこにある。ときには沈黙や静かな頷きすらも頭のなかの引き出しにしのばせて、誰かとの対話を安全なものにしたい。

 

 以前に自分たちのバンドの演奏を観てくれた人が、「鋭いくらいにソリッドなのに、痛みを感じない演奏だね」と評価してくれたのが、とてもうれしかったことを思い出す。おそらく、おれが他者との対話でたどり着きたい境地も似たものだろう。伝えたいことを伝えるために、言語も非言語も駆使して的確に伝える。そんなときに必要なのは、パフォーマンスじみた突飛な言葉ではなく、豊富な語彙から導き出されるたったひとことだと信じている。

 

 

かわりもの

 一緒に仕事をしているおばちゃんと出かけた寄席で、立川吉笑さんの「ぷるぷる」という演目を観ることがあった。

 

 題材はご隠居さんと若者の会話というよくあるものだけど、特徴はこの若者が松ヤニをなめて唇の震えが止まらない設定であるということ。そんな姿を、吉笑さんが唇をぷるぷると震わせながら演じるのだ。吉笑さんのユーモラスな甲高い声も相まって、これにはふたりでひいひい笑ってしまった。会場からの帰り道、お目当ての噺家さんそっちのけで「ぷるぷる」の話ばかりしていた。

 

 次の日、先に出勤していたおばちゃんに「ぽぱぽうぽぱいぱぷ(おはようございます)」と唇を震わせながら挨拶をして、またしても朝からふたりでひいひい笑ってしまった。わざわざそんなことしなくてもと思ったけれど、どういうわけかへたっぴなモノマネで昨夜の笑いをよみがえらせたくなったのだ。

 

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 何かいいものと出会うと、どうしたらそれを自分のものに出来るかをつい考えてしまう。

 

 といっても落語のモノマネをしたのは「ぷるぷる」のときくらいだし、そうでなくても完璧な形態模写をすることには惹かれないらしい。どちらかと言えば、会話の途中でどこかで聞いたフレーズを差し込んでみたり、ご飯を作るときにお店で出てきたものが再現できないか考えたり、あるいは似たような盛りつけをしてみたり、どこかで見つけたよいものを行動の一部に組み込みたいのだ。

 

 そんな行いは自分にとってはごく当たり前だったのだけど、どうやらよいものと出会ったところで行動に変容が現れない人も多いらしい。おもしろい話もおいしいご飯も好きだけど、自身がおもしろい話をすることやおいしいご飯を作ることには興味がないといった人なんてごくありふれたことだ。

 

 それなのに自分はなぜ、何かすてきなものに出会うとすぐに影響されるのかと考えると、ひとえに自分がよいと思ったものをそっと他者と共有したいからだろうと思い至る。

 

 自分がハマった対象を共有したくなったとて、「好きな映画を一緒に観て!」「これ絶対おいしいから食べて!」「この子が推し!」なんて剛速球は即デッドボールの予感しかしない。それよりも一度自分で消化したうえで、「好きな映画で知ったここの景色が好き」「自炊の時はあの店の料理みたいなのを作るんだ」「こういうコーディネートいいよね。推しがやってたんだけど」なんて、ちょっと遠回りだけどクセのない追体験を他者と共有したいのだ。

 

 ときには、自分で消化したもの同士が融合して、好きなものと好きなものが合体することすらある。そんな状態のものを抱えて過ごせたら、毎日が明るく見えちゃったりするよね。

 あらゆる好きなものに囲まれて暮らしたいけど、それを叶えるにはいささかキャパが足りなくなるもの。だったら創意工夫で全部頭に詰め込むなんて選択を、いつの間にやらとっていたのかも。

 

 

連休連休なに食べよう

 

 はいはいどうも、今日もお疲れ様でした。

 

 おれは5日間の勤務を終わらせて、明日から三連休が待っている。そのうえ、今回は予定の入り具合が絶妙にほどよい感じ!

 連休そのものはありがたいことにちょくちょく頂いているけれど、最近は泊まりがけアンド早朝発深夜帰着で旅行に出かけるようなパターンが多かった。そうなると、周辺の日々も準備とか片付けとかでせわしなくて、なんだか倍くらいの日数で気を張った感じになってしまう。ありがたいけどさ。

 なにより、大掛かりな予定がない休日の楽しみは食事だろう。普段からやってみたかった料理をやって、ふらっと外食に行ってもいい。アイスとかお菓子だって食べちゃうもんね。

 

 連休初日の明日は一日フリー。

 たまりにたまった身の回りのことをこなしたり、少し先までの趣味の予定を考える予定。時間があったらドラムの練習に行ったり、ひたすらポケモンを進めたりもしたい。ありゃ、これは結構忙しくなりそうだぞ?

 わりあい部屋で過ごす時間が多くなりそうなので、この日の楽しみは昼食用に確保してある辛ラーメン。過度に辛いものってときどき食べたくなる。ほかにもセブン系列で売ってるカップ麺の蒙古タンメンとか、激辛版のポテコ感がある暴君ハバネロあたりを買うことがある。そういえば外食では辛いものあんま食べないな。なんでだろ。

 今回の辛ラーメンはいつもと違って、贅沢にも豚バラ肉をトッピングしちゃうつもりだ。こないだ行った韓国料理屋さんで出てきたポッサムの分厚くて脂がたっぷりついた豚肉がおいしくて、ついついスーパーで買ってしまったのだ。いつものコマ肉よりも高いから、ちまちま使うぞと心に決めて。おまけに韓国のりとチーズまで待機している。残った汁はご飯にかけて食べちゃうかも。夜は走らなきゃな。また予定が増えた。

 

 連休中日は友達とドライブの予定。

 目的地のひとつはコストコ。そう、夜はコストコパーティーの予定なのだ!コストコ歴まだ1回の自分にとってはまだまだ未知の領域も多い。しかもすぐに食べる算段がある状態なんて楽しみで仕方がない。大きなトレイの端から端まで敷き詰められたお寿司やピザとか、見るだけで胃もたれしそうな巨大なケーキ。サラダなんかも主役を張れるくらいの存在感のパックがあるのだろう。おまけにご自宅用のパンとかレトルトの大袋まで買っちゃう!参加人数はわずかに3人だけど、まあたまには大食いもいいだろう。帰った翌日はちゃんと走りにいくからさ。

 

 最終日はライブを観に行ってくる。

 1,000人規模のライブハウスなんていつぶりか。自分が出るライブや落語の公演は行ってたけど、ロックバンドの大きめなライブはひさびさだ。ツアーファイナルでもあるし、何か驚くような演出や発表もあるのかも。何より憧れのミュージシャンの姿を拝むのはいつだって楽しみだ!

 ライブの日といえば、帰りにどこかで外食をして帰るのも楽しみだ。同行人がいれば人が少し人が引き始めた居酒屋に流れ込むところだけど、今回はひとり参加。そんな日はついついラーメン屋さんに入りたくなるものだ。ちょうど今回行く街は、おしゃれな塩系から煮干に家系、二郎系と個性豊かなラインナップを備えている。グーグルマップとかでパパっと開拓しちゃってもいいだろう。この日はスタンディングだから多少のカロリーオーバーは大目に見ようではないか!よって走りに行くのは免除!

 

 なんだかちょうどよく、家ご飯、テイクアウトご飯、そして外食がバラけるようだ。いいじゃんいいじゃん。

 気がついてみればどの形態でも、わくわくする食事を導く引き出しが備わっていることに気づく。いやぁ、でもグルメな友達はもっとすごいもんなあ。写真フォルダを見せられるたびに羨むばかりだ。なにを食べてもまあまあ生きていける世の中で、あえて食べたいものをちゃんと考える。それってすごい豊かなこと。さあ実りの秋の開幕にふさわしい連休を過ごそうではないか!

 

 

子を育てない自分には

 

 子を育てない自分には、30代以降どう生きていこうかというロールモデルがなかなか見つからない。

 

 シングルでのびのびと生きる芸能人やアーティストのような形から、ささやかながら日々を着実に生きている人生の先輩たちの姿まで、選べる生き方は途方もなく広いように見える。子育てという軸がないだけで、こんなにも生き方は多様に見えてしまうのかと思うくらい。もっとも、子育てしている人々だってそれぞれに生きているのだけど、どうにも画一的に見つめてしまっているのかもしれないが。

 

 自分がどんなふうに生きるかを支える主義というか、哲学というか、そういったものは自分が出会ってきた人々からいろんな要素を吸収して、ぼんやりと形をなしている感覚がある。ただそれとは別に、自分が属している子育て世代という領域において、子育てをする人の生き方を対偶にとって自身の現在地を測ることがままある。

 

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 子を育てない自分には、気力も体力もあり余っている。

 

 なんせ自分も状況が違えば子どものひとりやふたり、あるいはもっと多くの人数を育てることが出来る能力があるはずなのだ。成長する子どもは日々刻刻と姿を変え、親である自身にたいして求めることはどんどんと移ろい、予期せぬ瞬間に難しい判断を迫ってくる。なんてタフな日々だろうか!でも、事実そんな毎日を子育てをしている人は過ごしている。いざそう思うと、自分は大切にしていることについて、子育てに使うくらいの力を使えているだろうかとふと立ち返る。

 

 べつに子育てをするかどうかは自由なわけだし、生きていくうえでどれくらい力を込めて過ごすかもまた自由だ。令和の世では、なるだけ頑張りすぎず緩く生きていくことを推奨する言説のほうがよく見かけるくらい。自分だって頑張りすぎて折れてしまうような場面はなるべく回避したい。きっと、これは子育てをしている層にとっても同じことだろう。

 

 むしろふと意識がピリッとするのは、自分が取り組んでいることについて「まあ自分のためにやっていることだしこのくらいで…」などと、妥協や甘えが芽生えるときだ。きっと子育てをしている人々は、何か子育てで課題があるときや、仕事や生活に追われて子どものことが後回しになるような場面でも、「いいや、もうちょっと頑張るればこの子のためになる」と奮起する場面があるんじゃないだろうか。そんなことを思うと、自分もまた何か情熱を傾けられる対象があるとき、ついダラッとしたくなる身を律するようになるものだ。

 

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 子を育てない自分には、他者と共有できるミッションが少ない。

 

 もし自分に子どもが出来たら、育てるという観点で行っても20年くらい、それが済んでも親子という関係は自分が死ぬまで続いていく。そんな覚悟をしなければならない。そして、もしパートナーがいればそんな途方のないミッションを共有することになる。

 

 とにかく長い時間を要するものだ。生活や言動の節々で愛情を積み重ね、ふとしたときに愛情が結実して感動を共有したりするのだろう。ときにはジッと事態の好転を待ち続けるような状況もあるのかもしれない。そういった長い長い道のりを、おれは誰かと共有することが出来るのだろうか。

 

 あいにく子育てのような密度で他者と共有できる物事は、そうそう思いつくものではない。あったとしても、それを共有できるパートナーとの出会いなんてそうそうありふれたものではない。だけど、誰かと分かち合った物事を大切に育てていって、気がついたら長い期間なっているようなステージは作れそうな気がする。

 

 まずはささやかなことでいいんだ。よく遊ぶ友達との関係が続くように、手を変え品を変え飽きずにいろんな方法で縁をつなぎとめる。一緒の趣味があれば儲けもので、どうすれば関心を持ち続けられるか考えてアップデートをつづける。恋愛感情が行き交う仲の人が現れたならもちろん、ずっと盛り上がりが続くように尽力する。

 

 なんとも疲れそうなことばかりだね。だけどさ、現実に子どもがいる人はせっせと子どものためにいろんなイベントを用意しているんだよね。子どものために週末のお出かけスポットを探し、一緒にアニメを観たりもして映画館に連れていくこともあるだろうし、何か興味の持てることを見つけてきたらどう応援するか考える。考え続ける。そんな労力を、おれはただ子ども以外の人に向けるだけの話だ。

 

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 子を育てない自分には、行き場を失った愛情が渦巻いている。

 

 出会った頃はたくさんの時間を一緒に過ごした友達たちも、かれらに子どもが出来れば子育てにかかる時間の方が多くなった。それは当然のことだし、むしろおれのことなんか放っておいて子どもにかかりきりになっていてほしい。

 

 けれども、そんなかれらはみな一様に優しくて、どこかでおれのことも気にかけてくれている。限られた時間でも会う時間を作ってくれて、どこかで話したことをずっと覚えていてくれたりする。そのうえで、我が子のことを存分の語ってくれるのだ。きっと、愛情にあふれたかれらは自分の子どもに愛情を込めて接して、それでもなお友達に向ける気持ちも持っていられるのだろう。そんなことを思うと、自分は他者をいとおしく思う気持ちをどこに向けていこうかと考える。

 

 愛情を定量化して扱うことなどできないのだけど、自身の子どもひとりを愛する気持ちは、親しいおとな数人分かそれ以上に匹敵するくらい大きいものとして扱われているように見える。実際、自分が子どもを育てていたとしても、友達やもしかしたら恋愛感情を持った相手以上に大きい気持ちを抱くことになっていそうではある。となると、子どもひとりを愛すると思って周囲の人に気持ちを向けたら、結構な数の人々に気持ちを寄せられるように思うのだ。

 

 おれは、自分の子どもに向けるはずだった愛情を、薄く延ばして細切りにして周囲の人に向けたいと思っている。なんだか愛情をうどん粉のように扱ってしまってみんな扱いに困っているようで、けっしてすべての人が受け入れてくれるわけでもない感じ。もっと濃密な付き合いを求める人は、現れても消えていった。それでも、おれの気持ちを受け取ってくれる人は、そんな距離感の付き合い方を楽しんでくれているようだ。

 

 細く長い仲とは、よく言ったものだね。

 

 

知と怒り

 

 いつの頃だったか、もっと多くの物事を知れば他者にたいして憤ることが少なくなるのではと考えていた時期があった。

 どちらかというと内向的で友達が少なかったのは子どもの頃くらいで、やがてそれなりに人付き合いが多い方になった。日々代わる代わる人が現れては、自分が思いもしないような考えを置いていく。ときには理解できないような言動をする人に出会うこともあって、憤りを覚えてしまうことも少なからずあった。

 

 そんなさなかだっただろうか、「優しさとは知識である」という考えにふれることがあった。知識があることで相手の立場への想像力が豊かになり、相手を慮ることができるようになる…といった論旨だったと思う。なるほど、たしかに自分には学がないから相手のことが理解できず、ただ自分が理不尽な態度を取られと嘆いてばかりだったように思える。少年怒りやすく学成り難しってか。ちょっとは他者のことを理解出来るようになるためにも、あらゆる知識を得ていこうではないかと思うようになった。

 

 静かに決意を立ててから数年が流れた。

 何かを学ぼうと意気込んた機会はそう多くないけれど、関心が持てる分野の本はすぐ読む習慣がついたこともあってか、はたまた曲がりなりにも社会経験を積んだからか、自分にもいかばかりの知見が積みあがった。歳とともに、相手が置かれた立場を想像するときの解像度も増したような気がする。

 

 しかし、内心に現れる憤りのような感情とは訣別できなかった。むしろ憤りですら解像度を増して自分の感情をかき乱す。どうしてこの人はこんなにも不誠実な行いをするのだろう。なぜ自分はこんなにも怒っているのだろう。そんな思考が以前よりも勢いをもって頭のなかを駆けまわる。

 

 結局のところ、知識は各人が持つ主義を補強する装備のようなものだと腑落ちするようになる。具備した知識により、人はより優しくもなるし、より厳しくもなる。銃弾も通さないように思えてしまうような鉄壁の理論武装をもって苛烈に他者を責め立てる人を見ると、知識が優しさに直結するとは言いがたいものだ。逆に、まだ多くのことを知らないであろう子どもが、誰かの落とし物を即座に拾って追いかけることだってある。それを優しさと言わずなんと言おうか。

 

 どうやら、自分が持つ憤りは知識だけで訣別しうるものではなかったらしく、静かに始めた試みは静かに挫折したのであった。しかしそれは決して徒労ではなく、ときどきで憤りの質感を変える結果をもたらした。以前は他者の言動についてその当人の人間性を観てばかりだったのが、だんだんとその背景にあるものに目が行くようになったのだ。

 

 誰かの言動にふれて、どんな環境がこの言葉を言わせたのだろう。他にやりようがあったのに、この行動を選んだのには理由があったのではないか。自分が呪うべきはこの人ではなく、もっと大きな対象なのではないかと考えるようになる。

 

 もし知識によって相手を慮ることができるとしたら、自分が感じた憤りの対象を相手から外すために知識を使うことなのだろう。憤り自体を消せるかどうかは、少なくとも別の軸で考えなければならないようだ。

 

 

好きに理由がないのなら

 

 服装や髪型に気をつける、相手の話を丁寧に聴く、何か気の利いたプレゼントをする…誰かに好意を持ってもらうために推奨される行動といったら、おおむねこんなところだろうか。その相手はというと恋愛がらみのことが真っ先に頭に浮かんでしまうけれど、これから友達になりたい人や一緒に仕事をする相手、すでに関係が出来ている人も対象になるだろう。

 

 好意をかきたてるメソッドが無数に流布している一方、何をどうしても他者から気に入ってもらえないこともある。自分がとった友好的な態度を軽く扱われたり、あるいは困惑されてしまったり、誰もかれも自分を好きになってくれるわけではない。自分ができるのはせいぜい思いつく限りの方法で好意を示すことまでで、その後は相手に任せざるを得ないものだ。「こんなことをすれば、相手は必ず自分を好きになってくる」なんてことは、ありえないのだ。

 

 そんなふうに考えていると、冒頭で示したような行動は好意をゼロから芽生えさせるものではなく、相手がたまたま持ち合わせた、自分に対する好意を維持または増幅させる性質のものに見えてくる。相手がわけもなく抱いた自分への好意があってこそ、相手は初めて自分の行動に目を輝かせてくれるのだ。たとえ相手の持つ気持ちが初めは小さくとも、努力と成りゆき次第でいくらでも大きくなった例を何回も見てきた。どこに自分の行動が作用するか不明瞭だからこそ、他者にたいして抱く好意というものは本当につかみどころがない。

 

 これが好意と逆の感情にも作用してしまった、後ろ暗い経験を思い出す。

 というのも、自分にはときどきなんとなく苦手になる人がいるのだ。気がついたら、そんな人の一挙手一投足に心がざわめき、相手が慕ってくれたとしてもうっとうしく思ってしまう。別に先方が何か悪いことをしてくるわけもないのに自分ばかりが落ち着かなくなり、やがて距離を置くことになる経験を何度かしてきた。わけもなく好きになる人がいるように、わけもなく苦手になる人もいるのだ。実際、好きな人相手なら全く逆の展開だからね。

 

 もしかすると、これまで自分が近づけた人も遠ざけた人も、かれらがとってくれた態度は案外みんな同じようなものだったのかな。さまざまな場で出会った個性がある人々が、それぞれにかれらなりの好意を向けてくれていた。そのうえに自分はあぐらをかいて、届いた好意を受け取れるか理不尽にジャッジしていたとしたら、あまりの傲慢さにおそろしくなる。

 

 それでも、おれは自分が抱く感情のすべてをコントロールしきれない。好きになりすぎて苦しくなった人を遠ざけたこともあれば、苦手に思った人をなんとか好きになろうとして挫折したこともある。いまになってようやく、相手を傷つけないように配慮するのが精いっぱいというところまで持ってこれた程度だ。

 

 たぶんこれからも、おれは誰かからに好きになってもらう努力も、あるいは誰かを好意的に見る試みもずっと続けていくのだと思う。また、その対象は自分自身にもなりうるだろう。対他者と同じくらい、自身のことを好きでいたいし、好意的にとらえられるような行動をかさねていきたいものだ。

 

 けれど、好きも苦手も一切の理由を挟まない状況が往々にしてある。誰かに永遠の愛を誓ったところで、あるいは自分自身のことを完全に認められた瞬間を迎えられたとて、次の日にふっと好意が消えうせる可能性だってゼロではない。ときとして理不尽なまでに流転する感情の前にして、確実に抗う方法なんてありやしないのかもしれない。

 

 ま、そんなもん知るかってんだ。

 いま愛したい対象を、全力で愛するだけさ。

 

 

お餞別

 

 もうお別れという人に、とっておきのお菓子をあげた。

 

 この人がどんな場所にいくのか、おれはよく知らない。

 けれども、もし甘いものが満足に食べられない場所だったらどうしよう。どこかにあったとしても、そのありかを見つけるまでに時間がかかってしまうかもしれない。そもそも、新天地までの旅路はどれほどだろう。それまで、この人は甘いものを食べられなくて、ひもじい思いをしてしまう。

 

 そんなことを想像すると、おれはとびきりおいしいお菓子を持たせずにはいられなかったのだ。

 

 

 ***

 

 

 もうお別れという人に、きれいな花束をあげた。

 

 この人がどんな場所にいくのか、おれはよく知らない。

 けれども、もし美しいものがめったに見られない場所だったらどうしよう。どこかにあったとしても、そのありかを見つけるまでに時間がかかってしまうかもしれない。そもそも、新天地までの旅路はどれほどだろう。それまで、この人は美しいものを見られなくて、ひもじい思いをしてしまう。

 

 そんなことを想像すると、おれは今の季節を詰め込んだ花束を持たせずにはいられなかったのだ。

 

 

 ***

 

 

 もうお別れという人に、思いを込めた手紙を書いた。

 

 この人がどんな場所にいくのか、おれはよく知らない。

 けれども、もしこの人に思いを寄せる人がいない場所だったらどうしよう。どこかにあったとしても、そのありかを見つけるまでに時間がかかってしまうかもしれない。そもそも、新天地までの旅路はどれほどだろう。それまで、この人は誰からの思いも感じられなくて、ひもじい思いをしてしまう。

 

 そんなことを想像すると、おれはありったけの気持ちをしたためずにはいられなかったのだ。

 

 

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 もうお別れという人が、窓越しに見た表情とともに去ってしまった。

 

 あの人は移動中の待ち時間に甘いケーキを食べて、着いた先は花と緑にあふれる美しい街だったと連絡があった。一緒に送られた写真には、向こうで再会したという旧知の知人が肩を寄せて写っている。

 

 ああ、何もかも心配のしすぎだったな。よかったよかった。

 

 きっと、何回目かのお茶の時間にお菓子はなくなり、花はしおれてしまって、手紙から思い出される表情は薄くなっていく。そうしておれたちは、気がつかないままに本当のお別れを迎えるんだ。

 

 そんなことを想像しても、おれは旅立つ人に何もせずにはいられないのだろう。