かわりもの

 一緒に仕事をしているおばちゃんと出かけた寄席で、立川吉笑さんの「ぷるぷる」という演目を観ることがあった。

 

 題材はご隠居さんと若者の会話というよくあるものだけど、特徴はこの若者が松ヤニをなめて唇の震えが止まらない設定であるということ。そんな姿を、吉笑さんが唇をぷるぷると震わせながら演じるのだ。吉笑さんのユーモラスな甲高い声も相まって、これにはふたりでひいひい笑ってしまった。会場からの帰り道、お目当ての噺家さんそっちのけで「ぷるぷる」の話ばかりしていた。

 

 次の日、先に出勤していたおばちゃんに「ぽぱぽうぽぱいぱぷ(おはようございます)」と唇を震わせながら挨拶をして、またしても朝からふたりでひいひい笑ってしまった。わざわざそんなことしなくてもと思ったけれど、どういうわけかへたっぴなモノマネで昨夜の笑いをよみがえらせたくなったのだ。

 

 ***

 

 何かいいものと出会うと、どうしたらそれを自分のものに出来るかをつい考えてしまう。

 

 といっても落語のモノマネをしたのは「ぷるぷる」のときくらいだし、そうでなくても完璧な形態模写をすることには惹かれないらしい。どちらかと言えば、会話の途中でどこかで聞いたフレーズを差し込んでみたり、ご飯を作るときにお店で出てきたものが再現できないか考えたり、あるいは似たような盛りつけをしてみたり、どこかで見つけたよいものを行動の一部に組み込みたいのだ。

 

 そんな行いは自分にとってはごく当たり前だったのだけど、どうやらよいものと出会ったところで行動に変容が現れない人も多いらしい。おもしろい話もおいしいご飯も好きだけど、自身がおもしろい話をすることやおいしいご飯を作ることには興味がないといった人なんてごくありふれたことだ。

 

 それなのに自分はなぜ、何かすてきなものに出会うとすぐに影響されるのかと考えると、ひとえに自分がよいと思ったものをそっと他者と共有したいからだろうと思い至る。

 

 自分がハマった対象を共有したくなったとて、「好きな映画を一緒に観て!」「これ絶対おいしいから食べて!」「この子が推し!」なんて剛速球は即デッドボールの予感しかしない。それよりも一度自分で消化したうえで、「好きな映画で知ったここの景色が好き」「自炊の時はあの店の料理みたいなのを作るんだ」「こういうコーディネートいいよね。推しがやってたんだけど」なんて、ちょっと遠回りだけどクセのない追体験を他者と共有したいのだ。

 

 ときには、自分で消化したもの同士が融合して、好きなものと好きなものが合体することすらある。そんな状態のものを抱えて過ごせたら、毎日が明るく見えちゃったりするよね。

 あらゆる好きなものに囲まれて暮らしたいけど、それを叶えるにはいささかキャパが足りなくなるもの。だったら創意工夫で全部頭に詰め込むなんて選択を、いつの間にやらとっていたのかも。